見える化

見える化」という単語にずっと違和感があって、でもその理由が今までうまく表現できなかったのだけど、最近になって気づいたことがある。と言うのは、その違和感は単語自体が気持ち悪いのではなくて、この単語が利用される場面に対して、そのネーミングの安直さがうまく噛み合っていないのが原因ではないか、ということ。

 
安直というのは「見える化」とたぶん同じ意味の「可視化」という単語があり、「見える」というのは人間が見ている感じがするけど、「可視」はそのものの性質を表す言葉で、主体が人間から物体に移っている。たとえば光について考えるときに「可視光線」が正しくて「見える光線」とは誰も言わないのは主体が光線だからだろう。その主体を移す手間を省いているという意味で安直といった。
 
難しいのは、その手間がかかることによって「可視化」が固い、フォーマルな言葉になることだ。つまり gnuplot でグラフを描いたり、巨大なデータから何らかの傾向を読み解いたりして、その結果をプレゼンテーションにて聴衆の皆さんにお伝えします、というような「きちんとした」情報を扱うときは「可視化」という言葉を使うほうが望ましい。たとえそのグラフを見る主体が人間であったとしても。
 
それに対して、たとえばドラえもんの道具で、この眼鏡をかけるとすごいテクノロジーにより壁の向こうが透けて見えるようになりますみたいなものがあって、のび太君がそれを使ってしずかちゃんのお風呂を覗いたりしたら、テクノロジーによりお風呂が「見える化」したと言うのがふさわしい (さらに、その眼鏡をたとえば倒壊した建物の下敷きになっている生存者を探すために使ったら「可視化」になる気がする) 。
 
要するに主体に対してではなく場とか文脈に対して self-consistent な単語を使うべきという話で、世の中の多くの「見える化」はそこに失敗していることが違和感を生じる原因なのだと思う。そう考えると、たとえば真面目なデータを分析していたはずなのに思わず笑ってしまうようなおもしろ分析結果が得られたら、プレゼンの場でも堂々と「見える化」という言葉を使うことが可能になると言える。